喪女の結婚

あるいは幽霊を見ないこと

喪女の奇妙なデート(破綻する)

喪女だけどデートしてしまった多分デートこれはデートなんじゃないか

優しい同僚氏と

なんか私の誕生日だったし、なんかカジュアルな定食屋さんへお夕飯へ行きました

めっちゃわがままなのは分かっているけど、もうちょっとおしゃれな店に行きたい

そういうのは女子と行けばいいんだよねーって分かってるけど

まあ初っ端からそういう気合いガンガンな店でも困るからやっぱり同僚氏手馴れているなあと思いました

なんか、いるときも生き霊男のことばっかり考えて大変不謹慎だし失礼だって思うけど、生き霊男に会いたい

生き霊男からはもはや何の感情もないということがよく分かる

むしろ、警戒されて距離を置かれている感すらある

愛しているのが完全に空回りで気持ち悪い

というかもはや自分を慰撫するための執着でしかないのだ

優しい同僚氏の優しさに流されるというか、優しさを利用している自分が嫌になる

生き霊男のためにあらゆるものを捧げる覚悟ができているはずなのに

覚悟はすぐ揺らぐし、何も捧げられない

何の力にもなれないし、人生に何のかすり傷も与えられない

オルフェウスを好きになってしまったマイナンの女信者たちの気持ちがよく分かる

八つ裂きにする力が欲しい。いや、実際にしちゃったらダメだから願望だけだけど。八つ裂きにする力を世間のために有効活用したい

それが巡り巡って生き霊男のためになるんじゃないんでしょうか

 

クリスマスが毎年やってくるように

毎月鬱々とした気分はやってくる

薬を飲んだら変わるのか?器質的な問題なのか?

もう解決しないのか?自分が努力不足なのか?わからない。

 

生き霊男を諦めないといけないのに、ダラダラ好きだった。

今年もまたクリスマスがやってくる。生き霊男は異様にクリスマスソングが好きなので、ホワイトクリスマスを聞くと胸が苦しくなる。彼がいるので。

優しい同僚氏は相変わらず優しいけど、距離は詰まらない。

生き霊男と生きていければ何にもあとはいらないっていうのは、

脳が依存状態なのだと思う。正常じゃない。正常じゃない執着。

それはわかっているのだ。

 

毎月生理とともに鬱々とした気持ちがやってくるのと一緒で、

自分の本心じゃないところから注入された感情なのだろう。

生き霊男が欲しくてたまらなくなって苦しむのも、

そういう、本心じゃないところから注入された感情なのだろう。

でも、とりあえず苦しいのは変わらないのだ。

苦しいのは変わらず、苦しみを正しい意味で理解できるのは、

それを味わっている当の本人であるところの私しかいないのだ。

 

苦しい死にたいとかで検索すると命の電話が出てくるし

そんなこと言われてもえええみたいな気持ちになって、

どうしようもないので、朝からチョコレートケーキを食べる。

明らかに健康に悪い。

明らかに。

お前のバイクを盗んで今朝は

お腹が痛い。よろれいひーってくらいお腹が痛い。

痛くない。我慢できる痛みは痛くないのだ。痛いってどこから?どこから痛いなのか?

明らかに腹の中何かいるよね?

という夜を過ごした後、今日は吐き気と眠気がひどかった。

何だろう?毎日生き霊男の痛みを肩代わりしたいと願い続けているので願いが叶ったのでしょうか。

バイクを盗めない人生を送ってきたから、生き霊男にバイクを盗ませようとしている。それはフェアじゃないよね。って自分でわかっているけれども、好きになっちゃったらもう終わりじゃないですか?

人生がつらいほど幸せになれるお水

幸せドラッグをいっぱい摂取してますます虚しくなる。

ストロングゼロをなんかタイトルのように表現したりしなかったりした人がいて、すごく秀逸だと思った。

どんどん摂取量が増えていく。酔いの中に一瞬生き霊男が現れる。隣人としての好意を示してくださる。

むなしい。

喪女の結婚以前にすること①だらしない自分を変えたいのだが

 だらしない自分を変えたいのだが、本当に、生き霊男にしろ誰にしろ、男の人と付き合える自信がない。完璧になりたいと言うわけではないけれど(なれない)、例えば自分がもし愛する人に贈り物を贈るなら大変良い贈り物を贈りたいです。きっといろんな店を回り長時間ネットで調べ厳選に厳選して贈るでしょう。多分ね。私が生き霊男(等)に贈ることができるのは、自分の存在だけなのですが、その自分の存在がお粗末なので、よろしくありません。だから、自分が自分の恋人であるかのように、自分を育み自分を変えていきたいと思いました。

 自分を変えるとはいかなることでしょう。食べたものはひと月で身体から抜けて行くそうですが、ひと月は自分の体を構成しているようです。習慣を己の力とすることです。私事ですが、昔から(今も)大変な内弁慶で、多分病的な恥ずかしがりでした。電話を取ることができませんでした。連絡網を回すことなんて、吐き気がして、まるで人に告白するみたいに緊張していました。今も、まあ相変わらず勇気はいりますが、できます。何度もやったからです。そういうことです。

 習慣化するのです。良い習慣を形成し、己の力とするのです。

 でも、何を習慣化すれば良いのか、どうすれば正しい人間(これが正しいかは考えないとして)になるために必要な習慣なのか、あまりのだらしなさの中で生きてきた私にはわからないです。とりあえず、理想の朝の生活を列記してみました。

着替える 5分
ベッドメイクをする 2分
カーテンを開ける 1分
顔を洗う    2分
化粧水をつける  2分
乳液をつける   3分
床掃除をする   10分
トイレ掃除をする 10分 35分
モーニングノートをつける 20分
瞑想をする   1分
エプロンをする  1分
ご飯を準備する 10分
お弁当を詰める 20分
お弁当を運ぶ  30分
畑仕事     20分
ご飯を食べる  20分
勉強をする   60分
ピアノを弾く  30分 
掃除機をかける 10分 

歯を磨く 3分
メイク・ヘア 30分
家を出る

これだと、朝起きてから家を出るまで4時間以上必要になってしまいます。無理だ!現実を見ろ!やりたいことはいっぱいあるのに何かふわふわしていてダメやなって感じですわ。現実を見ろ!己の能力を考えろ!だらしないのに色々手を出そうとするからダメなんだ!耳が痛い。耳が痛いよー。

 では、最低限生活に必要そうなところだけ拾ってみるといかがでしょうか。

着替える 5分
ベッドメイクをする 2分
カーテンを開ける 1分
顔を洗う    2分
化粧水をつける  2分
乳液をつける   3分
ご飯を準備する 10分
お弁当を詰める 20分
ご飯を食べる  20分 

歯を磨く 3分
メイク・ヘア 20分
家を出る

90分ほどでできることが分かりました。いやー、逆に言うと、最低のことをしようとしても90分はかかるんですよね。今まで、20分ほどでやっていたので、どれだけ必要なことを端折っているのか(端折れるってことだけど)、その端折ったことがだらしない自分への罪悪感となってちびちびのしかかっていたと言うことだと思います。例えば、ベッドそのままだったり、化粧水つけてなかったり、ひどい時は化粧してなくて会社行きながらやっていたり、着いてからトイレでやったり、髪もボサボサだったり、そう言うのが自分への信頼を失わせていたのだろうと思います。これに則ると、朝の余剰時間は、私の起きれそうな時間で逆算するとプラス30分が限度なので、何かしらやりたいことを削る必要があります。まあ、畑のこととかくらいでしょうか。

 

夕方編

着替える3分

洗濯+干す 20分 

ご飯の準備 20分

ご飯を食べる20分

洗い物10分

掃除90分

風呂30分

風呂上がりに化粧水・乳液をつける3分

風呂上がりのまったり 30分

パジャマに着替える5分

髪を乾かす 10分

明日の準備10分

これで240分くらいかかっている。4時間くらいだ。もし、18時に帰宅したとしても(できるかは別)22時までかかってしまうのだ。休みの日におかずのまとめ作りをする、買い物をする、布団を干す、シーツを洗うとしてもこれだ。

プラス、やりたいことを足すと時間が足らない。掃除の時間をちょっと減らすとしても、プラス90分くらいが限度だろう。

ジムでトレーニングをする 120分

勉強 120

読書 30分

ピアノ30分

足らないのだ。きちんと生きるには時間が思いの外必要という事実に驚いた。ああ。きちんと生きるとか、丁寧な生活に憧れるけど、それには犠牲にするものが色々あるのだ。そして、絶対これにプラスでダラダラネット見たりする時間がある程度あるし、それは全くゼロにできないと今までの経験から思いました。一日で自由な時間は2時間くらいしかないのだ。今までがダラダラして自由すぎだった。というか、睡眠時間を削って自分の調子を落としていたのだ。

もう一度じっくり考えたいと思いました。

 

死にたい時に聞く(けど効かない)クラシック

死にたい時期がある。自分の意思に反して死にたさが脳細胞に注入されている感じ。不自由な死にたさに屈してはならない。そうは思うが、気持ちが全て虚しさに支配されてどう手を打つにも打ちようがない。日常が送れなくなる。日常が送れないのをごまかして日常を送る。歪みを見ないようにする。

音楽は処方箋である。にわかのクラシック好きなので、死にたくなったらとりあえず駆け込むように音の波の中に埋もれる。非常にしばしば泣きながら私が音楽でなく人間であることに絶望する。だが音楽は死にたみを薄める効果はなく、時が過ぎるまでじっとしているしかないのだ。

近代フランス、ロシア、東欧あたりの作曲家が好きで、異常にロマンチックで傷つきやすい、感傷的なおセンチで愚かしい魂のあり方を反映されているようだ。もちろん、作曲家の方々は愚かしくはないのだが。

 

死にたい時に聞いているクラシック

ドビュッシー ロマンチックなワルツ

ノスタルジアそのものである。生き霊男のことを思いながら聞くと非常にしばしば泣けてくる。

ドビュッシー 海

北斎の神奈川沖浪裏を始め聞いた時想起した。彼も北斎にインスピレーションを得たと聞いて嬉しい。神奈川沖浪裏の小舟は、波を乗り越えそうなのだけれど、左右反転すると波に飲まれそうに見えるのだそうだ。中学校の美術教師が言ってた。完璧な音楽を聴くと、なんかもう絶望して死にたくなる。

ドビュッシー ベルガマスク組曲

なぜか月光はそこまで聴く気にならないが(なんか有名すぎて浸れない)、パスピエとか暗くて好き。プレリュードからずっと聞いているとメヌエットあたりで泣けてくる。

ドビュッシー アラベスク

昔は月光と同じく有名すぎてフレーズがCMとか別の世界を喚起させてちゃんと聴く気にならなったが、清浄さに胸が震える。

ラフマニノフ ピアノ協奏曲 2番

ラフマのピアコンを弾くなんて夢のまた夢で死んでいくんだろうと思うと泣きたい。殊に1楽章は延々聴けてしまう。最初の概ね30秒ほどが私の今の心境である。朝目覚めて、死んでいないということ。人生が重くのしかかること。生き霊男のことを思いながら聴くと非常にしばしば泣けてくる。最後の終始に至る過程も非常に好き。

ラフマニノフ ヴォカリーズ

ノスタルジアそのものである。クラシック好きなのも、日本語の歌詞が入ると頭が余計な情報でパンクしてしまうからで、ヴォカリーズは歌詞がないから、安心して聞ける。でも、自分でその時その時に適当に歌詞を作ってしまって、頭を自滅させる。生き霊男をのことを思いながら聴くと非常にしばしば泣けてくる。

グリーグ ソルヴェイグの歌

ペールギュントは結局ろくでなしの上に何にもできなかった人生を無為に過ごしたやつの典型みたいなもので、すごくシンパシーを感じる。そんな彼にもソルヴェイグがいたわけで、でも私には誰もいないやっていうところまで考えて惨めで泣けてくる。朝とか、アニトラの踊りとか、魔王の城とか、その辺も好き。

ラヴェル ダフニスとクロエ 2番

本当に美しい夜明けそのものの情景が浮かんで、光の中で死にたさが増す。

ラヴェル クープランの墓

さらさらとしていて悲しい曲が好きです。惨めな気持ちをガンガン洗い流してくださる。太鼓の達人の中に入っていたけど、本当に秀逸なアレンジでラヴェルの生まれ変わりでしょうかってくらいすてきでした。

サティ ジムノペディ

本当に落ちた時はこういう静かな起伏に富まない曲が落ち着く。3番まで通して聴くと、なんかすごく心が安らぎます。似たようで、違うというヴァリエーションがいいのでしょうか。

サティ 官僚的なソナチネ

クレメンティソナチネを皮肉っているという時点で勇気付けられる。ピアノのお稽古って嫌いだった。クレメンティまで行く前にやめたけど。なんかそういう昔の嫌な気持ちがうまく反転される気がする。

バッハ インベンション 

2、4、7、13あたりが好き。バッハは親が好きなのでなかなか好きになれないが、そこを差し引いても落ち込んでいる時にはいいのではないかと思う。淡々としているから。

シュトラウス サロメ

サロメの覚悟を思うと泣けてくる。リズムと官能的なオーケストレーションで現実逃避するための曲。私も、生き霊男の首が手に入るんだったらなんでもやるよって思う。生きてる生き霊男が好きだから、なんでもできないけど。

リムスキーコルサコフ シェヘラザード

シェヘラザードの語りで不眠の夜を明かしたい。私にはシェヘラザードはいないということを実感して泣けてくる。終章の最後のヴァイオリンの高音が胸に迫る。全ては物語であって、物語でしかないのだけれど、それが閉じられる時の虚しさを感じる。

チャイコフスキー ロミオとジュリエット

最初の30秒で泣きたくなってくる。メインテーマは甘ったるくて、ロミオもジュリエットも自分にはいないということを思い出して泣けてくる。

チャイコフスキー 交響曲5番

二楽章で生き霊男のことを思うと泣けてくる。

フォーレ シチリアーナ

ノスタルジアそのもので、泣けてくる。

レスピーギ シチリアーナ

自分の葬送のように日々を送ろうと思える。

ドヴォルザーク 新世界より

1楽章の最初が好き。メロディアスで元気になります。

ブルックナー 交響曲7番 2楽章くらい

ブルックナー交響曲はなんか淡々としていて落ち着く。

 

なんつーか、全体的に生き霊男のことを思い出して泣くための装置にしかなってなくて、これは音楽に対する侮辱なのではないか?執着されて生き霊男もかわいそう。一年くらいぶりに話した。たわいもない世間話をしただけで、胸が幸福感で震え上がり、後からこれは手に入らないものだと頭の理解が追いついて地に叩き落される繰り返しだ。愚かなる私に寄り添ってくれるのは優しい音楽たちだけになってしまった。そんな夜は不眠です。