喪女の結婚

あるいは幽霊を見ないこと

ないない地獄

私は死にたいと思う、乾いた雪が降る、高速道路の隣の並木道。裸の並木はとても美しくて、私は新たな世界の美の様態をしる。

恥ずかしくて死にたい。恥ずかしくて死にたくなる。恥ずかしくて死にたくなる。

生きることそれ自体が恥ずかしいのに、どうしてみなは平気なのかわからない。そういえば私は耳あてをする人の感覚がわからなかったのだが、耳が寒さで痛いというあの皮膚感覚を、わかる人とわからない人がいるのと同じように、生きていることが恥ずかしいという恥ずかしさを感じる人と感じない人がいるのだろう。いいとか悪いとかじゃなくて、感じるか感じないかである。

 

という、漠然とした恥ずかしさは置いておいて、単純に遭遇する恥ずかしさにおいても、ずっと引きずって思い出してウワアアってなって気が狂ったのではないかという挙動をしてしまう。静かすぎる昼休みに気が狂うのではないかと意識が遠のく、私は大丈夫だとトイレで言い聞かせる。大便をしながら。大便は偉大である。大便を排出すると、なんだか元気になってしまうのは、生きているからなのだろうか。排泄をしたあと周囲を警戒しなければならないという意識の名残が気持ちを高揚させるのだろうか。それとも、大便に仮託された思いが流れていくからだろうか。

 

恥ずかしさとは、規範から外れることへの戸惑いであり、期待されている振る舞いを外れてしまったことへの悔やみである、そう変換すると、まずちょっと違う角度から見える気がする。なんというか、頑張って期待に応えようとしている自分がいじらしくすら思えてくるのだ。

 

どうすればいいのかわからないことがいっぱいある。うまくいかないことが沢山ある。クソして寝ろと地獄甲子園は言う。地獄だからね。24時が回るしね。